言いたいことと、言いたくないこと
こんばんは、めんどくさがりです。
昨今のニュースを受けまして、どう言葉にして良いのか未だに悩んでいますが、形に残しておきたくてこの記事を書きます。
有名な方が亡くなったというニュースはテレビを見ないようにしている私でも色々なところから情報が入ってきてしまいます。
とても寂しいです。
ですがそれ以上に繰り返しトピックに上がるたびに私には
の方が頭に残っていくのです。
希死念慮を持っている人にはなんとなく体験したことがあると思うのですが、話題に引っ張られるような、希死念慮が頭にどんどん増えていくような。
それがどうしても消えずに残っているのです。
なので、言いたいこととして
ニュースとして取り上げるのはわかるのですが、表現の仕方や繰り返しは考えて頂ければ、ということ。
そして何よりどんな人でも希死念慮を持ってしまうほど危ない病気だと正しく知って欲しいということです。
そして言いたくないことは
なぜ、やどうだったのか?は本人しか正解はわかりませんし、聞かれて答えられるものでもありません。誰だって全てを言えるわけではないので、言いたくないことがあります。
知らなければならないことではないなら、調べようとしないでください。
私自身がここ最近ずっと眠りにつく前、希死念慮におそわれ、このまま消えられたら一番良い解決策になるのに。と何度も何度も思っています。
けれども私は勇気がなく今こうして記事を書いています。
けれど少しの違いで記事にできてなかったかもしれない。
それぐらい自分にも周りにも難しい状態で過ごしたりしています。
なのでより苦しいと声をあげられるように、そもそも苦しくなる前に、どうにか出来るような人や場所、時間が作れればと思ってしまいます。
そして本人ではなく周りも適切に対応できるような、気付きやすいような、大変にさせないような接し方がしっかりとしたお医者さんの発言の元、たくさんの人や社会に浸透していけば良いなと願わずにはいられません。
あり得ないことではありますが、こんな風にニュースになる度に、実は嘘で有名な面だけを捨てて、どこか好きな場所で好きなように生活し幸せであってほしいと考えてしまいます。
けれど悲しいことに事実で、拝見できなくなってしまったことはやはり当分は忘れようと思っても忘れられないと思います。
追悼の意を表します。
全倒れの危険
こんばんは。
めんどくさがりです。
まだまだ世界的にも注意してお過ごしでしょうか。
私も人と会わないように引きこもって生活しております。(騒動前から)
さて、今回は私だけではなく、沢山の人の限界が来ている、ということについてお話ししたいと思います。
私は東京までは2〜3時間程度の関東近郊に住んでいます。
ですが地元ではオタ活出来るほどお店などは揃ってない、どころか演劇はもっぱら都内で行われております。
騒動の前は、一度出たときにどれだけ回れるか計画したりしていたものですが、今ではたくさんの公演が中止延期となっています。
連日のニュースと、各地でも増えてきた報告を見ると様々な決断してくださってる方々が多いと感じます。
舞台を公演するにあたって細心の注意を払っても、都内の環境が悪化してしまえば中止延期するしかありません。
誰もかかっていなくても、誰かがかかる可能性をなくすための決断です。
けれどそれには準備していたものを全て無くして出費ばかりおきてしまいマイナス面が大きすぎるという点を忘れてはいけません。
運営や演者さん、会場さんなどの負担が積もり積もっているのではと心配になります。
さて、もう一つ大事な決断をしている人たちは、私のように観劇などをするために都内に向かう人たちです。今やどの場所でも感染のリスクがあり、長時間の移動はより気をつけなければなりません。密閉された空間で移動しますからね。
さらにもし感染など起きた場合に今では個人情報がばらまかれたのか?というレベルで晒されてしまうところもあると聞きました。
自分も、周りも何事もなく終わってほしいと思いつつも、心配で行くべきかずっとずっと悩んでる人もいます。
ただでさえ業界的に収入がへっているので微力でも支えたい気持ちはある。
けれども行くまで、行って帰ってからもしものことがあったその後の自分を天秤にかけると後者が大切です。
生きてる場所ですからね。
そしてより精神に負荷をかけるのが都内にいて観劇するための移動がほぼないなどの観れる方々がいる事実です。
観客としては公演されれば観たい、けれども全面中止にならず自己判断で観に行くのをやめないとと考えてしまう。公演しているのに、チケットが手元にあるのに、座席が用意されているのに、行けないってことが起きているんです。もちろん都内でもお仕事など様々な理由で行けない人もいると思います。行きたいのに、行けるのに、行けないんです。
私もそのせいで毎日不安にかられ、中止の発表しているものなどないか検索をかけるようになりました。公演日が近付けば近付くほどより大きな不安になります。
行くべきか、行かないべきか。
そんな不安が気軽に通えない状況にいるお客さんにずっとずっとのしかかってきて、公演してるのに観に行けない自分の気持ちをどこにぶつけたらいいのかわからなくて、心がポキっと折れちゃうことだってあります。
様々な公演やイベントなどの中止延期で疲弊している業界の方々も、チケットを持っても行くべきか選択をしなければならない人たちも、もう、限界だと思います。
騒動がおさまったらー、では遅いとかって言うコメントも見かけたりするたびに
わかってるよ!わかってるけど行けないんだよ!
と頭を抱えてしまいます。
本来であれば楽しみに溢れているはずの好きなことですが、この騒動により離れてしまう人もいなくはないと思います。
公演しないと倒れてしまう運営側の方々、公演しても行けないと心が折れてしまうお客様の方々、観劇したとしてもリスクを抱える不安からは逃れられない方々、多面からみても、今にも倒れてしまいそうです。
とても理想なのはものすごいお金持ちが1公演とか丸ごと買い取って自分のみとかで観劇してもらって、感染リスクを最小に留めること。そして運営さんはその公演を再び騒動が完全に収まり、遠方からも足を運べるようになった頃に再演してくれることだと気づいたので、お金持ちの皆さん、どうかよろしくお願いします。
みんなが倒れてしまう前に、どうか、救いの方法が見つかりますように。
みなさんの健康を本当に願っています。
私のうつ病は悪化してきていますが、それ以外で今病院のお手を煩わせるつもりはありません。
医療関係の皆さんも倒れてしまう前に方法が見つかりますように。
今日も眠れずに明るくなりました。
こんな時期に観劇しようと考えてる私が悪いという意見も出るでしょうが、
今のような状況で、友人にも気軽に会えず、心の元気(うつ病なのでそもそもないのですがあえてこの言葉を使います)がどんどん無くなっている中の趣味という回復方法の一つです。
お菓子を作ることが趣味の人はお菓子を作って心の元気を回復するのと同じで、
私も推しが舞台に立っている姿を、その場でしか観れない物語を観て回復したりするのです。
こんな時期に、という批判は心にご飯を食べさせるなと言っているのも同じだと考えています。
普段から最低限生きてるのがやっとで、通院して人と合わないように、マスクや消毒で自分を守ることを忘れずに過ごしているので、
やっと食べられるかもしれないごはんをとりあげないで下さい。
なんだか話がまとまらなくなってきてしまいましたが、どうかみなさん、心が折れそうなときはまず誰かに叫んで下さい。
自己判断ばかりで内側に溜め込んだものを整理するためにも、誰かに。
そしてその誰かの声も聞いてみてください。
同じように悩んでるかもしれないのですから。
一年後なんて考えたくありませんが、
どうかせめて良い環境となっていますように。
眠れるかわかりませんが、おやすみなさい。
眠れない夜に考える悪いこと
こんばんは、めんどくさがりです。
連休ではありますが、まだまだ大変な時期、程々にしていきましょうね。
さて、長引く梅雨のせいか、このところずっとずっと調子がわるく、つねに頭のどこかに希死念慮があります。
天気のせい
病気のせい
疲れのせい
ストレスのせい
原因はわかっていると思っても消えるものではありません。
私は怖いものも痛いものも恐怖の対象なので自傷行為や自死行為など未遂すらなくただひたすらに、具体的に考えるだけです。
ODは失敗する。
吊りも、飛びも、ほとんどは失敗すると聞きます。
けれども方法として浮かぶものを自分がするのなら、と眠れない深夜に考えてしまうのです。
私がもし出来てしまった場合、それをみた家族はどのようになってしまうのか。
そんなことが昨日はふとよぎりました。
私のルーツになる家族、けれども誰しも誰かが朝起きて二度と目を覚まさなくなっていたら不安や恐怖や気持ち悪さが染み付いてしまいそうだな、も思ったのです。
そこまで心優しい家族なのかはわかりません。
けれども昨日はそう考えていたのです。
その場合、まず死だけでも衝撃でしょうがさらに自死となれば同じ家の中にいた自分も嫌になったりするのでは、とか一方で負担がなくなりこれからは幸せに暮らせるのではとかぐちゃぐちゃの頭の中で眠くなるどころではありませんでした。
だから自死ではないパターンにしよう、と浮かんだのです。
例えば事故に巻き込まれたような、自分ですら予想外のときです。私は自分で痛いことも怖いこともせずにこのぐちゃぐちゃになった頭をやっと捨てられる。
家族は誰も悪くなく、負担もなくなり良いのでは?
なんて。
もっと考えていくと、家に不審者が入ったとして、それに気づいたのは私だけで、追い出そうとした結果…なんてドラマのような展開を浮かべるのです。
けれども結論は全て
私は消えたいという願いが叶う
家族は多少の動揺はあるかもしれないが、圧倒的に負担がなくなることが良い点
なのではないかと変わることはありません。
以前一度だけ行った病院のカウンセラーさんに自傷行為などしたこと、しようと思ったことはありますか?と聞かれました。
私は怖くて準備すら出来てません。と答えました。
実際にしてなくても、準備すら出来ない臆病ものでも、何度も何度も自分がいかに早く消えるかは綿密に考えていたりするんです。
私は誰かの自傷行為や自死を助長する発言のつもりは一切ありません。
むしろ、それが今一番良い方法か一緒に考えません?って言いたい側です。
考えた回数はその辺の人の何倍何十倍なんです。
現実的も非現実的も併せて考えてみたりしてるんです。
だから今考えている人にはそれが一番良い方法ですか?もっといい方法あると思いませんか?って一緒にまた新しい方法を考えたいんです。
消えたいのにご飯を準備する矛盾も、
消えたいのに服を買う(この場合はストレスによる消費行動と思ってる)矛盾も、
消えたいのに誰かには消えて欲しくないと思ってしまう矛盾も自分ではどうにも出来ないんです。
最高の方法も、この矛盾で引っ掻き回された頭の中が落ち着く頃には見つかるのでしょうか。
このブログを見ている人はいないと思うけれど何かで流れ着いた今にでも飛び込みそうな思いがある人は、それが最高の方法?ってちょっと考えてみて下さい。
私も最高の方法が見つかるまで考え続けなきゃいけなくなると思います。
思い浮かばない時は、私と一緒に考えてみましょう。
コメントとかでよければですが。
と、まぁ、うとうとしながら思うままに打ったので訳が分からないとは思います。
けれどもし希死念慮を抱えてる人がいるなら、私も抱えてるよ、病気の症状だよ、疲れてるとかないかな?って気持ちと、
私は消えたいと頭の中にいっぱい浮かんでは消えずにいるんだという矛盾が伝わっていたらいいな、と思います。
いつか最高の方法がみつかるか、根負けして諦めるまではまたブログを書く機会があると思います。
その時まで。
では、また。
正しさのお話
こんばんは。
めんどくさがりです。
ふと思い出したことがあるので、さくっと書きます。
私は正論を出すことが正解じゃない場面があると思っています。
けれども間違っていることを良しとするわけではなく、
間違えたところ以外にも目を向けて欲しいと思っているのです。
小さい時から私は怒られて育てられました。
わがままを言う、言うことを聞かない、ちゃんと出来ないなどなど。
その度にお兄ちゃんは出来た。という言葉も付け足されていました。
今思えば兄たちも褒められているところをしっかり見たわけではありませんが、怒られているところを見たことはないので、おそらく私だけが怒られていたんだと思います。
たしかに小さい頃にはわがままを言うことってありますよね。
遊園地に行きたい的なやつ。
それに対して
お金ないの!(事実貧乏)
あんたがうるさいから行かない!(わがままを言ってるからだと思う)
などの返答を頂きましたが、正しいけど、子供は納得できなかったんですよ。
そうだけどそうじゃない。
今ならそう思います。
お金がないのは仕方ないけれど、遊びたいと言う気持ちを一緒に解決する方法って全くないのか。
話せばうるさいと思うけれど、全くなにも言わないのが正解なのか。
また、兄と比較された際も、確かに兄達は真面目でちゃんとしてる。
けれど私も出来ているところはあるのに、なぜそこをなにもないかのように扱うのか。
たった少し残っていた私も褒められそうなところでも、めちゃくちゃ褒められそうなところでも、母の物差しの中では兄を超えることはなく全てなかったものになりました。
正しくもあり、間違っている。
そう思っています。
最近友人が伝え方が難しい、と言っていたので思い出しました。
私はそれは言葉の選び方よりも、内容だと思います。
間違ってるだけでは全てが違うように受け止めてしまうけれど、
ここは出来てて、こっちが違って、だから出来てる方みたいにしてみない?的な間違えてないところをあげるだけで間違えていることが少しだけのように受け取れると思うのです。
それ間違えてる。
よりはずっといいと思うんです。
言葉は難しいけれど、出来る限り考えて話したいなって思いました。
まぁこの文章書いてる今も色々訳わからなくなってきてるので、今回はこの辺で。
あと、怒られて育ったからって怒られ慣れてると思わないで下さいね。
むしろトラウマレベルになってるので、人一倍過剰反応してしまいます。
怖いですね。
10万円のおはなし
どうもこんばんは。
めんどくさがりです。
今回は話題の10万円についてお話しします。
私にもやっと書類が届き、提出してから振り込まれるまでの間、なんだかずっとソワソワしてました。
なぜかというと、お金を使って買い物ができるというワクワク感からです。
もちろん普段からお金を使いお買い物をしていますが、
そのお金自体にストレスが関わっているからです。
それは働けていないこと。
まだ就労訓練にも参加できていない私は無収入です。
日々仕送りで生きています。
ご飯を買ったり病院に行ったり光熱費を払ったり家賃を払ったりと仕送りしてもらってるお金で支払いながら生きています。
上記に関しては生きていくためのお金なのでそこまで大きくストレスにはならないのですが、
その他のものを買うときに頭に浮かぶのです。
「これを買ったら無駄遣いしてる、とまた怒られるのではないか」
例えば本を買うとき、家族から見れば必要ないものなので無駄遣いと言われることがあります。
そんなことが積もり積もった結果、買い物をするたびに怒っている家族の顔が浮かぶようになりました。
そしてさらに買い物していなくても、服がボロボロで恥ずかしいから新しいもの欲しいな、と思うときにも浮かぶようになりました。
そのためいくら下着が穴開こうが、Tシャツがよれよれになろうが、靴下がボロボロになろうが(まだ穴空いてないから大丈夫と思ってた)買うのを躊躇って買えずにいました。
化粧品もそうです。
毎日するわけではないし、高いものが欲しいと思うわけでもないけれど、
誰かに会うときにすっぴんは恥ずかしいからしておきたい。
けれどそれは私の感覚であり家族から見れば必須なことではないので無駄遣いになってしまうのではないか…。
そんな風に悩むことが沢山ありすぎました。今でもあります。
けれど今回の10万円は違います。
働いてる方などの支払っている税金ではありますが、私も微量支払っているであろうお金となれば誰の顔色を伺うことなく買い物が出来ます。
本を買おうと、下着を買おうと、家族から無駄遣いと言われることはないはずです。
(広く見れば大事に使うお金であまり使わずに取っておく方が良いのかもしれませんが)
なのでそのお金で何を買おうかリストを作ったりしてました。
コンタクトが欲しいなーとか
バスタオル新しくしたいなーとか
パン切り包丁欲しいなーとか
下着買い替えなきゃなーとか
一つ一つは大きな買い物ではありませんが、その買い物を躊躇させるだけの力が
無駄遣いしないで
の言葉にはあったんです。
時折ストレスやだるさからインスタント食品やお菓子をかなり買い込んでみたり、百円ショップで文具や消耗品など買い込んでみたりする反動期がありましたが、
普段の私には駅ビルでウィンドウショッピングもあまり楽しめず、ドラッグストアも洗剤などばかりでコスメコーナーは通り過ぎるだけ。
私が何年も同じ服を着て、同じ化粧品を使い、ボロボロでサイズも合っていない下着で生きていても誰も困らないのですが、
変われてないんだなぁ、自分だけ。
と立派に働く友人を見ては考えてしまいます。
でも!私は!服を!買ったぞ!!!!
GUで990円のシャツですが、買いました。
誰にも何も言われないで、値段よりもちゃんと欲しいと思って選べたものです。
他にもサンダルとか靴下とか買いました。
私は買い物をしました。
生きてはいるけどしねてないだけ。
そんな風に日々過ごしているので、
買い物自体もそうですが、
欲しいものをかんがえてるときからわくわくしていた時間は
私はちゃんと生きてました。
今年の服を着て、今年を過ごす。
当たり前みたいでなかなか難しいこと。
残りのお金もどう使おうか考えますが、使い切ったときに仕送りの連絡するのが怖くてなかなか決められません。
仕送りの連絡するの本当に心が砕けます。
また言わなきゃいけない、頼らなきゃいけない。
この間もお願いしたのに。
と自分を責める言葉ばかり浮かぶので
やはりお金はストレス。
でも、自分で買った服は、何度見てもワクワクさせてくれます。
なんか書いてるうちに辛くなってきたので、今回はこの辺で。
では、また。
みなさんも良い10万円の使い方と出会ってください。
少し困った話
こんばんは、めんどくさがりです。
最近の気温の変化についていけずさらにまた自律神経が乱れているんだろうな、とひと事のように思いながら手足は冷えながら汗をかいています。
さて、今回のお話なのですが少々言葉選びが難しいので不快に思う方がいたら申し訳ないと先にお伝えしておきます。
うつ病の症状の中には希死念慮という死にたいという考えに頭がとらわれてしまう困ったものがあります。
不安なども付き纏う闘病中は些細なことでも浮かんでしまうことが多く、症状だとわかっているのに自分で止めることのできないものです。
ですが私にはうつ病を発症する前からずっと思っていたことがあります。
それは家族の中で誰よりも先に死にたい、ということです。
それは今すぐということではなく、これから先の時間の中であるであろう未来の話です。
両親や兄弟の方が長く生きているので人生の残り時間が減っているかもしれません。
私にはもしその時が来たときに受け入れられる自信がありません。
死というのは避けられませんし、予測もできません。
ですが私が幼い頃からずっと恐怖を覚えていたものが死ぬことです。
自分が死ぬことよりも周りの誰かが死ぬことに対してひどく怖いと思ってしまいます。
仲良くしてくれていた近所のおばあちゃんが亡くなったときも、会ったこともなかった遠い遠い親戚の人が亡くなったときも、テレビで見ていた芸能人が亡くなってしまったときも、流行り病や事故で名も知らぬ誰かが亡くなっているニュースを見たときも、心のどこかに言葉にできない不安のような恐怖のような気持ちが生まれます。
父が大きな病気にかかったときも、母が手術したときも、兄が事故に巻き込まれたときも、周りは大丈夫助かる生きていられると言ってもその連絡を受けた時からずっと心をぎゅっと不安や恐怖が締め付けて離れません。
会えなくなること、話せなくなることが寂しいとかではなく、誰かがいなくなることに対しての恐怖が強いのではないかと思います。
だから小さい時から家族の誰かの死と出会ってしまうくらいなら自分が先に消えた方がよっぽどマシだと思うようになりました。
さらにうつ病にかかったことでより恐怖や不安に打たれ弱くなってしまいました。
今身近な誰かが倒れようものならうつ病でばらばらと壊れた私の心はより粉々に砕け、元に戻すことは不可能になると思っています。
正気でいられる自信がないのです。
昨今の感染症を考えるといつ誰がかかったりしてもおかしくない。
私一人だから買い出しも一人で行くし部屋から出られない日々だから問題はないけれど、立派に働き、家事をして生きている家族や友人は私の何倍もの感染リスクであろう。
感染してしまったらどうしよう。
また、私が実家にて家族と会うことでクラスターとなってしまったらどうしよう、
それで誰かが発症して苦しんでしまったらどうしよう、
最悪のケースが起きてしまったらどうしよう。
そう次々と浮かんでしまい実家に立ち寄ることも出来ずにいました。
不安症としてのどうしようではなく事実として起きてしまった場合私は自分を一生責め続けますし耐えきれず死のうとするでしょう。
そんなどうしようとか不安とか恐怖に飲み込まれるぐらいなら、自分が先に。
そう思ってしまうのです。
けれども幸いなことに家族も未だ感染した人はいないようで不安はかかるかもしれないの段階の不安ですが、
不安が悪化する可能性はまだまだあります。世界レベルでの問題なのですぐには不安を減らすことは出来ないでしょう。
けれども今のところ身近で苦しんでる人はいないことが私の不安をほんの少しだけ軽くしてくれています。
だからどうかこれからも無事で生きていてください。
家族も友人も名も知らぬ沢山の方々も。
またまとめきれなかった感じが残ってしまいましたが、言いたかったことは大体言えたかな、と思っています。
本当に、どうかみなさん無事で。
では、また。
たくさんの不安を蹴散らして気が向いたら書きます。
あるかわからない日について考える
どうも、こんばんは。
めんどくさがりです。
変わりもせずうつ病の症状とともに生きています。
このご時世ですのでが、家にいることはいままで通りですので問題なく過ごしていました。
ただ、自分がかかったら、家族がかかっていたら、など不安面はすごく負担となりひと月ほど悪い状態でした。
今回のような場合はどんな方でもストレスとなり、不安が残ると思います。
いつも以上に医療関係の方、販売職の方などたくさんの人に頭が上がりません。
本当にありがとうございます。
そしておうちで自粛している皆さんも大変な状況下で自分と家族と周りの感染リスクを避ける行動をとっているのは素晴らしいと思います。
少しでも早く落ち着くのを願うしかありませんが、日々ニュースを見ては願っています。
さて、昨今のお話が今回のあるかわからない日ではなく、私自身のあるかわからない日について今回は書こうと思います。
それは私が誰かと生活していく日ということです。
それが結婚なのか、同居なのかわかりませんが自分以外の人と過ごすような日が来るのかどうかとぼんやり浮かんできたときに
自分のうつ病がどんな風に影響するのかを考えてみたんです。
今現在私は服薬と通院しており、働くことは未だ出来ず昼夜逆転しないよう生活を作っている最中です。
やっと朝起きてカーテンを開けて今日はいい天気だな、と思ってパンを食べる。
そんな流れが続けられる日が増えてきました。
何種類もの薬を飲み、調子が悪いときにはさらに頓服薬をのみやっと生きているという状況で、私はうつ病というものと一生付き合っていくのだと思ってますし、服薬もおそらく一生続くと思っています。
うつ病は寛解という症状が出なくなる状態が理想ですが、簡単なことではなく時間をかけても無理せずに治療を続けて出来るかどうかです。
なので私は一生うつ病だろうし、服薬もしていくと思って治療しています。
それを共に過ごす人に伝えるにはどうすれば良いのか。
実の家族ですら全てを説明できてないのに、もともとどんな人間でどんな症状が出てどう対応してるのかを伝えるのは難しいのかと思います。
急に不調が出たり、希死念慮が出たりと自分でも対応しきれない症状を他の人がみたらどんな風に思うのか。
それを考えだすとマイナス面しか浮かんでこないのです。
不調が出て動けない人間に対して、だらけてるやサボってると見えるのはよくわかります。
好きなことはやってると思う場合もあると思います。
不調で動けないことが周りにとってはみてるだけでストレスになるのではないかと思うと誰かの邪魔をしないで一人で過ごしている方が良いのではないか、といつも結論付けてしまうのです。
人から甘えてると思われてる、と自分でも思う時があります。というかよく思います。
一生付き合っていくであろううつ病と、その症状を抑える服薬と、いつでるかわかりきってない不調と、凝り固まった自己批判を抱えた私は誰かと過ごすことがいつかは出来るのでしょうか。
これ以上誰かに迷惑をかけてまで生きたいかと考えてしまうので、大変難しいと思います。
それでもいつか寛解したら、症状が軽くなったら、不調のタイミングをうまくつかんでコントロールできるようになったら、誰かに引け目を感じて生きる生き方でなくなったら、ともしも話としてぼんやり考えてしまうのです。
あるかわからない日がきたらそれはそれで大変そうですね…
今回も考えながら打ち込んでいるので、ごちゃごちゃした文章となってしまいましたが、どこかでこんな風に考えている人もいるのだと一瞬でも思って頂ければ幸いです。
では、また気が向いたら書きます。
それまでどうかお元気で。