めんどくさがり、褒められたかった
こんばんは、めんどくさがりです。
久しぶりに下降気味の気持ちの中、色々と考えてしまっていました。
ふと、認証欲求から、
褒められたい。
と思いました。
しかし今の私では褒められるようなことは何もありません。
そして、過去に褒められたことも思い出せません。
私と褒められるという言葉の間には大きな2つの溝があります。
まずは
自分で褒められるほどの努力の記憶がないこと。
頑張って偉いね、頑張ってたからだね
そんな努力の結果を認めてもらえるほど、何かしらに集中していたことの記憶はありません。
自己評価が低いと言われればそれまでかもしれませんが、
昔から出来ないことは出来ない、そこそこ出来るならそれで十分という選択を取ってきた私には努力という言葉は使えないのです。
逃げてきた結果なので自業自得ですね。
2つ目に
褒めて欲しい人から褒めてもらった記憶がないこと。
これが大きく影響していると思います。
会社や友人間では
すごいね!よく気づくね!
という言葉をいただいたことがあります。
これはとても嬉しいものですが、
褒められた記憶として思い出しません。何故なら会社友人間では相手に迷惑をかけないという大前提の元、行動を選択しなければならないからです。
そこから少し何かメーターが触れてそこを評価してもらうことは褒められるという感覚とは少し違う気がします。
迷惑を考えず、純粋な賞賛をして欲しかった人物は家族です。
まず一番最初に触れる集団であり、一番濃く関わり、損得関係なく相手を見ることができる。
そんな家族から褒められたとしたら、裏もなく純粋に受け取れるでしょう。
しかし、私には家族から褒められた記憶はありません。
もしかしたら覚えてないだけであるのかもしれませんが、
忘れないような褒められて嬉しかった、幸せだった、そんな記憶がないのもやはり問題だと思います。
お手伝いをして料理を褒められて料理が得意になった、や
絵が褒められて飾ってもらえた、や
習い事の表彰を喜んでくれた、など小さいときにありえそうな出来事は全て私は否定的な言葉の記憶しかありません。
お手伝いはしてないときに怒られた記憶、
兄の絵は飾ってあったのに私の絵は見たことなかったこと、
習い事の表彰は面倒だから行きたくないと言われたこと。
そしてさらには学校での話を聞いて欲しくて話してもうるさいから少し黙ってて。
自己否定の強い人間になるのも仕方ないかと思います。
生きてくれてありがとう、すごいね、偉いね。
そんな言葉を夢見てしまいます。
かなり気持ちも落ちてしまったので、今日はこの辺で。
皆さんはしっかりと生きていてすごいと思います。
慌ただしい生活の中で、しっかりと生きていくことは大変かと思いますので、
無理は絶対にしないで下さい。
では、また。